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Newton's law of universal gravitation proves that the raindrop keep fallin' on your head, then Sushi is a beautiful food to be loved by universe.
One day I had a dream about Sushi appearing through a door of Cuckoo Clock and thought that it would be nice if that kind of Cuckoo Clock existed in the real world. Actually the day before I had the dream, I went to Sushi Bar, ate Sushi (delicious!) and enjoyed Japanese Wine (I reckon it's sort of Zen taste?) and then I certainly realized that I was so excited to imagine about the country which I never visited to. Then I made Sushi Clock for my own pleasure and I hope all you guys (Sushi-lovers all around the world) would like it.
Sushi Clock would tell you the time on every 1 hour and 30 minutes, see various kinds of Sushi and hear the Japanese traditional drums, then feel Japanese culture.
Arigato!
高橋:結局みんな規制だったんだと気づかされるんです。『残光』を読んで残る印象というのは要するに自由ということなんだけど、自由ってこんなにさびしいものだったのかって思う。その自由というのもかつては大文字だったんですよね、「自由!」って強い調子で。でもこの自由は何か小文字の自由ですよね、「自由ですよ」っていう控えめな感じ。
根負けしてワープロのスイッチを切り、玄関を開ける私を発見した時の彼の喜びようは、どんな作家でも表現することは不可能であろう。この世界にこれほどの喜びが存在しているとは、まるで奇跡のようだと思いながら、私は立ちすくむ。
「さあ、奥さん。小説のことなんか忘れましょう。小説が一体どうしたって言うんです。散歩ですよ、散歩。世界を支えているのは、散歩なんです」
みたいみたいと思っていた映画をやっとみることができました。そのみたいみたいという想いはレンタル屋さんに通った回数で説明することができるでしょう。というのも、そのみたいみたいと強く想う気もちは、その映画に向かおうとする姿勢から生じてくるものなので、へにゃへにゃとした生半可な姿勢でのぞむことは映画に対して失敬だという思いが、僕をこの映画から長いあいだ遠ざけていたのです。つまり僕がへにゃへにゃだったせいで、三度もレンタル屋さんに通い、三度もおなじDVDを借りることになってしまったのです。で、ようやくそのみたいみたいと思っていた映画をみることができたのです。ダーバー、ダバダバダ、ダバダバダ。サウンドトラックを買わねば。絵もサイコーにかっこよかった。DVDも買わなければ。
こころが動かされたとき、いくつかの言葉をならべて文章をつくり、なんとかして記憶に留めようとしますが、たとえいくつもの言葉をならべたとしても絶対にその「こころ」のうちを精確に書き表せられるということはなく、そしてまた仮にその文章を書き終えたときなどには今しがた感じたと思われた「こころ」模様は跡形もなく消え去ってしまっている。「こころ」を書こうとしていたのに、「言葉」だけを書いていた。「言葉」だけしか書いていなかった。シェルブールの雨傘。ロシュフォールの恋人たち。なんど思い返してみても、あれはほんとうにミュージカル映画だったのだろうかと思われるほどに、すっかり僕は「言葉」を奪われてしまいました。すべての音に意志があり、音の意味を理解するよりもずっとまえに聴覚を刺激し、日常的な振る舞いで歌いあげるカトリーヌ・ドヌーヴ、ミシェル・ピコリ、ジャック・ペランを見上げ、地上6階の疎らな観客とノイズに塗れた渋谷の街を背後に感じ取り、そして、ほんとうの「音」だけを「こころ」のみで聞くことができました。
ここ数年来のお気に入りであるエメリカのリッジモントを脱ぎすて、アシックスのスカイセンサー・ジャパンを履きはじめるに至ったのは、このところめっきり時間を持て余しているからであり、そして、ようやくジョギングに慣れてきて「きょうも走りたい」と想う気持ちが強くなってきた矢先、右ヒザを痛めてしまいました。やはり初心忘れるべからず、ということで、もういちど復唱しておきたいとおもいます。はい。「いつもこころにアホメガネ」。ありがとうございました。
追記:制作期間2日/T.T. Remix Competition/-O-O-.mp3 (320kbps)/奇遇にも、右ヒザの故障によって再び想い起こされた「アホメガネ」は、2度とズレ落ちることはないでしょう。
高橋: 小説で書くことがない、というのは作家が言わない本当のことの一つ、というか、もっとも大きな一つです。「あいつの作品は本当はつまらないんだけれども、みんなが褒めているからいいか」とか、作家が言わないことはたくさんある。本当のことを言うのが文学だというのは、実はまったくの嘘なんですね。でも、よく考えてみたら、これは文学に限ったことではなくて、この世界の構造は基本的に「本当のことは言わない」ということなのかもしれない。つまり「コード」というのは、そういうことですよね。ところが、中には本当のことを言ってしまうやつがいる。書くことがないとか、文学は本当のことを言っていないとか。しかし、そう正直に書いてしまうことが重要なのではなく、彼らが世界そのものをそういう正直な目で見ていることが大切だと思うんです。つまり、彼らが書くものの中に、そういう世界の構造そのものが見えてきてしまう。彼らには、本質的なことしか見えない、だから話が飛ぶんですね。二葉亭四迷の作品でも「おれは書くことがない」と言ったあとに、なんの脈略もなく犬の話を書いている。そして、それがすごく面白い。犬という対象に溺れたりしないで、溺れている自分を客観的に見るとか、本当のことは誰も言っていないという視点が書いているものすべてに入っているんですね。中原君もそうだと思うんです。文学という狭い世界の話ではなくて、世界全体がそういうふうに見えてしまう、その目が、僕は面白いと思うんです。その態度というか、姿勢が、一貫していてぶれない。そんな人間が見ている視野、その視界から見えた世界は、通常我々が見ている世界とは違っている。これはやっぱり彼らの特異なところです。
Fは、手塚マンガの手法に忠実に、記号的なマンガの絵によって、出来事を記述していく。絵はコマの連なりによって事態を描き出す。四段十二コマを基本に、ストーリーは語られていき、描かれた絵は機能に忠実に情景(何が描かれているか、何が起こっているか)を伝える。語られるべき物語、ストーリーをいかに効率よく語るか。そこには全てを純化し、夾雑物を排除していこうとするストイックなまでの機能美、単純さ、美しさへの意志がある。線さえも、無個性化を求める。プロダクションシステムの中でマンガを製作していくことともそれは関係があったのだろうが、Fのスタイルは、一般化、普遍化、共有性を求めて進化していった。誰でもあり、誰でもないこと。Fの死後も、Fのマンガの幾つかがプロダクションによって創り上げられていることは、その求めたことがある程度完成していたことを思わせる。一方、Aは今もほとんど自分で絵を入れる。何を語るかというより、どう描くかということへのこだわり。私史、趣味、嗜好などAがより個の中に入り、個を主張していこうとするのに対し、Fは無個性化、無化を求める。一つの結論になってしまうのかもしれないが、絵、スタイルという点から見るならば、Aは表現者であり、Fはマンガのシステムそのものである。Aは世界の中の私を考え、Fは世界を夢見る。
十一歳の夏休み、仕事で一ヶ月ヨーロッパを回っていた父親から、お土産に万年筆をもらった。銀色で細身の、スイス製の万年筆だった。
キャップを取ると、磨き込まれた流線型のペン先が現れ、それは見ているだけでも胸が高鳴るほどに美しく、持ち手の裏側にはその曲線によく似合う筆記体で、私のイニシャルYHが彫ってあった。
おもちゃ以外のお土産をもらうのは生まれて初めてだったし、まわりで万年筆を使っている子など一人もいなかったから、自分が一足飛びに大人になったような気がした。この万年筆さえ手にしていれば、何か特別な力を発揮できると信じた。
私はいつどんな時も、書きたくて書きたくてたまらなかった。国語の漢字練習帳がいるからと母に嘘をつき、お金をもらって大学ノートを買った。学校から帰るとランドセルを置き、真っすぐ机の前に向かってとにかく万年筆のキャップを外した。
いざとなって、自分が何を書くつもりなのか、ちっとも考えていないことに気づいたが、私はひるまなかった。そんなことは大した問題とは思えなかった。インクがしみ出してくる瞬間や、紙とペン先がこすれ合う音や、罫線の間を埋めてゆく文字の連なりの方が、ずっと大事だったのだ。
大人たちはすぐに、娘が何やら夢中になって書いていると気づいたが、必要以上に干渉はしなかった。とにかく机の前で書き物をしているのだから、それは勉学、例えば漢字の書き取りのようなものに違いないと思い込んでいたらしい。
スリッパをはいて階段を登ってはいけないとか、お風呂に入った後は冷たいものを飲んではいけないとか、あの頃課せられていた多くの禁止事項の中に"書き物"が加えられなかった代わりに、大人たちは誰も書かれた内容については興味を示さなかった。どうせ自分たちの知っている漢字ばかりなのだから、という訳だ。
私はまず手始めに、自分の好きな本の一節を書き写してみた。『ファーブル昆虫記』のフンコロガシの章。『太陽の戦士』の出だしのところ。『アンデルセン童話集』から『ヒナギク』と『赤いくつ』。アン・シャーリーが朗読する詩。『恐竜図鑑』のプテラノドンの頁。『世界のお菓子』、トライフルとマカロンの作り方。……
想像したよりもずっとわくわくする作業だった。たとえ自分が考えた言葉ではないにしても、それらが私の指先を擦り抜けて目の前に現れた途端、いとおしい気持ちに満たされた。
言葉たちはみんな私の味方だ。あやふやなもの、じれったいもの、臆病なもの、何でもすべて形に変えてくれる。ブルーブラックのインクで縁取られた、言葉という形に。
そしてふと気がついて手を休めると、ノート一面びっしり文字で埋め尽くされている。ついさっきまでただの白い紙だったページに、意味が与えられている。しかもそれを授けたのは自分自身なのだ。
私は疲労感と優越感の両方に浸りながらページを撫で付けた。まるで世界の隠された法則を、手に入れたかのような気分だった。